2013年御翼6月号その1

茶の湯の政治化  千利休と秀吉

   

 四畳半以下の茶室を用いた簡素な「茶道」は「侘(わ)び茶(ちゃ)」と呼ばれ、千利休(一五二二〜一五九一)が完成させた。茶を飲む習慣は、平安時代に遣唐使によって日本にもたらされ、室町時代には本場中国の茶器「唐物」を使った盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した。室町幕府を滅ぼした織田信長は、家臣の統制に茶の湯を利用する。戦で手柄を立てた家臣にだけ、褒美として茶会を開く許可を与えたのだ。これにより、茶の湯は武将たちにとって最高のステータスシンボルとなる。そのとき、茶の湯全般を取り仕切る茶頭(さどう)として信長に仕えていたのが千利休であった。
 本能寺の変で信長が滅ぼされると、豊臣秀吉が後を継ぎ、天下統一に茶の湯を利用しようとする。しかし、茶会を開こうにも、唐物の名品は本能寺の変で焼失、秀吉は唐物に頼らずに茶会を催す手だてを探した。それに応えたのが、秀吉の茶頭となった利休であった。利休は唐物の華やかさとは異なる全く新しい「侘(わ)び」という素朴な美の価値観を打ち出す。茶会の場も、信長の時代は開放的な空間で行われていたが、利休は僅か二畳、あるいは一畳半の茶室を作る。その茶室は、小さなにじり口から入る。身分の高い者も、腰をかがめ、頭を下げては入らなければならない。武士でさえその魂である刀を茶室の外に掛けさせた。茶室の中では身分を取り払い、誰もが平等だった。更に、茶を回し飲みし、絆を深めるのに役立つ「侘び茶」は、天下統一を目指す秀吉にとって必要不可欠な「裏の政治舞台」であった。下剋上の戦国時代、為政者にとって、狭く暗い茶室でじっくりと「個人面談」できる「侘び茶」は、相手の真意を探るのに絶好の方法だったのだ。
 ところが、天下統一がなされると、秀吉にとってこの「平等」という考え方は邪魔になり、茶道に権威付けをして行く。そして、真の理由は歴史的に不明であるが、天正一九年(一五九一)秀吉は利休に切腹を命じ、利休は茶室において切腹して果てる(享年七十)。そのとき床の間には菜の花が生けられていたという。もし千利休が秀吉の意志に沿って、侘び茶を変化させていったならば、茶道の世界では秀吉が一番偉くなり、千利休が完成させて「侘び茶」は消滅していたであろう。なぜ「侘び茶」が四百年後の今、そのまま残っていることが大切なのだろうか。それは、利休は侘び茶(四畳半以下の茶室を用いた簡素な「茶道」)の中に、キリスト教の真理を託していたからである。茶室に入る前に、客が通過する露地は、飛び石がある狭い道であり、虚飾を捨て去り自分をさらけ出すという意味がある。全知全能の神が、人間本来の姿をあるがままに受け止めてくださるということに通じる。蹲踞(つくばい)(水を貯めるもの)は、イエス様が与える「命の水」(ヨハネ四・一四)を表わし、灯(とう)籠(ろう)は、「わたしは世の光である」(ヨハネ四・一二)というイエス様の言葉を象徴する。そして、茶室に入る躙(にじ)り口(ぐち)は、利休が考案した茶室特有の出入り口で、イエス様の御言葉、「狭い門から入りなさい」(マタイ七・一三)を表わす。狭き門とは、誰もが謙遜にならなければ入れない神の国の門である。  
 イエス様によって罪赦され、神の子として祝福される道が表わされているのが、「侘び茶」であり、裏千家なのだ。近年、バチカンに眠っていた手紙や記録、絵画などによって、侘び茶の完成にはキリスト教の大きな影響があったことが明らかになっており、日本側でもそれを物語る資料が出てきている。福音にも接していた豊臣秀吉はある日、大阪の教会へ現われたとき、こう言ったという。「わしはバテレン(宣教師)たちが、本願寺の坊主どもより正しいことを、よく承知している。バテレンは清浄な生活をおくり、坊主どものように汚れていない。わしはまた、キリシタンの教えに満足している。女どものことさえなければ、わしもキリシタンになってもいいと思っているほどだ」と。「女どものこと」とは、多くの側女(そばめ)のことである。千利休の直系、千宗室氏は、「利休が(秀吉に)切腹させられたのは、キリシタンであったためである」と語っているという。

 

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